ケーススタディ(2026.7)
中小企業における企業型
DC導入と人的資本経営
《設例》福利厚生制度の整備と従業員の資産形成支援
神奈川県内で電気工事業を営む株式会社A社(従業員15名)のB社長(52歳)は、近年の人手不足や若手採用難に悩んでいた。特に20~30歳代の若手社員については、「給与だけでは会社を選ばない」「福利厚生を重視する応募者が増えている」と感じており、採用活動において、大手企業との待遇面での差を課題として認識していた。
また、B社長は、自身の老後資金準備についても不安を抱えていた。会社の利益は安定しているものの、退職金制度は未整備で、役員報酬の多くを生活費として支出している状況であった。
また、A社では従業員の定着率そのものは大きな問題ではなかったものの、若手社員との面談で、「この会社で長く働いた先のイメージが持ちづらい」「将来のお金に不安がある」といった声も出始めていた。
そのため、B社長はA社の顧問FPであるMさんに対し、「社員にも喜ばれて、会社としても続けやすい福利厚生制度はないか」と相談することにした。Mさんはヒアリングを重ねる中で、単なる福利厚生制度の不足だけではなく、「従業員の将来不安」「経営者自身の老後準備不足」「採用競争力の低下」といった複数の課題が背景にあると考えた。
そこでMさんは、福利厚生制度の整備、従業員の資産形成支援、経営者自身の老後準備などを総合的に整理した上で、企業型確定拠出年金(以下、企業型DC)の導入を提案した。

- 業種:電気工事業
- 従業員数:15名
- 平均年齢:38歳
- 年商:約2億5000万円
- 営業利益:約2500万円
- 若手採用が難しい
- 福利厚生制度が弱い
- 従業員の金融リテラシーにばらつきがある
- 社長自身の老後準備が不足している
- 継続的な賃上げには限界がある
【B社長の状況】
- 年齢:52歳
- 役員報酬:月額80万円
- 退職金制度:なし
- 個人金融資産:約1200万円
- iDeCo:未加入
近年、中小企業において企業型DCを導入する動きが広がっている。その背景には、単なる退職金制度の見直しにとどまらず、「人的資本経営」の考え方の浸透がある。
人的資本経営とは、従業員を単なる労働力としてではなく、「企業価値を生み出す重要な資産」として捉え、長期的な成長につなげていく考え方である。特に近年は、人手不足の深刻化や若手人材の価値観の変化により、「給与水準」だけでなく「福利厚生」「働きやすさ」「将来への安心感」などを重視する求職者が増えている。
また、2024年から新NISA制度がスタートしたこともあり資産形成への関心は高まっているものの、実際には「何から始めればよいか分からない」「老後資金に不安がある」と感じている従業員は少なくない。
こうした中、企業型DCは、企業が従業員の資産形成を支援する福利厚生制度として注目されている。さらに、福利厚生制度としての側面だけでなく、従業員エンゲージメントの向上や採用力強化など、人材戦略としての意味合いも強まっている。
近年は、人的資本情報の開示義務化なども背景となり「人材への投資」を重視する流れは一層強まっている。特に中小企業では、大企業のように高水準の給与体系を整えることが難しいケースも多い。そのため、「働きやすさ」「成長支援」「将来への安心感」「福利厚生制度」などを含めた総合的な働く環境づくりが重要となる。
企業型DCは、単なる退職金制度ではなく、「従業員を長期的に支援する企業姿勢」を示す制度としても機能する。
企業型DCとは、企業が掛金を拠出し、従業員自身が運用商品を選択して運用する年金制度である。企業が拠出した掛金は従業員ごとに管理され、将来の老後資金として積み立てられる。運用成果によって受取額が変動するため、「確定拠出年金」と呼ばれている。企業型DCの主な特徴は〔図表1〕のとおりである。
また、中小企業では「選択制DC」を採用するケースも増えている。選択制DCとは、給与の一部を「給与として受け取る」か「企業型DCの掛金として積み立てる」かを、従業員自身が選択できる制度である。企業としては急激な福利厚生コストの増加を抑えながら制度導入が可能であり、従業員にとっても税制優遇を受けながら老後資産形成を行える点が特徴である。

近年は新NISA制度の開始により、個人で資産形成を始める人も増えているが、企業型DCとNISAは制度目的や特徴が異なる。
NISAは、個人が自由に投資商品を選択し、必要に応じて換金できる制度である。一方、企業型DCは老後資金形成を目的としているため、原則として60歳まで引き出すことができない。
そのため、企業型DCは「老後資金」、NISAは「教育費や住宅購入なども含めた中長期の資産形成」というように、目的を分けて活用することが重要である。

当初、B社長は「採用のために福利厚生を充実させたい」という考えで相談していた。しかし、M氏がヒアリングを進める中で、A社には別の課題の存在が見えてきた。
まず、若手従業員の多くが「将来へのお金の不安」を抱えていたことである。特に20~30歳代の従業員からは、「老後資金を準備したいが、何をしたらよいか分からない」「NISAは聞いたことがあるが、投資が怖い」といった声も多かった。
また、B社長自身も会社経営を優先するあまり、老後資金準備が十分にできていない状況であった。中小企業経営者の場合、「会社が自分の資産代わり」になっているケースも少なくない。しかし、会社経営はリスクも伴うため、法人資産と個人資産を分けて準備していく視点が重要となる。
さらにA社では、若手社員の離職率が高いわけではなかったものの、「この会社で長く働くイメージが持ちづらい」という漠然とした不安を抱える従業員もいた。
Mさんは、こうした課題に対し、「単なる制度導入」ではなく、「会社と従業員双方の将来づくり」という観点から企業型DCを提案することとした。
A社でも、採用強化や従業員満足度向上のため、ベースアップを行う案は検討されていた。しかし近年は原材料費や人件費の高騰もあり、中小企業にとって継続的な賃上げを実施することは容易ではない。また、給与を引き上げた場合、企業側には社会保険料負担の増加が生じる可能性もある。
例えば、従業員の給与を月額5000円引き上げた場合でも、標準報酬月額の等級変更などにより社会保険料が増加するケースでは、企業側は給与増に加えて、健康保険料や厚生年金保険料などの法定福利費負担も増えることとなる。
一方、従業員側も、給与増加分に対して所得税・住民税・社会保険料などが差し引かれるため、「昇給したものの、思ったほど手取りが増えない」と感じるケースもある。特に近年は物価上昇の影響もあり、「給与は上がっているが、生活に余裕ができた実感が持ちづらい」という声も少なくない。
そのためMさんは、単なるベースアップだけでなく、「将来の資産形成支援」という観点から企業型DCを活用することが有効ではないかと考えた。企業型DCでは、掛金が給与所得課税の対象外となるため、所得税や社会保険料負担を抑えながら老後資産形成を進めることが可能となる。
また企業側にとっても、掛金を福利厚生費として損金算入できるほか、社会保険料の算定対象外となるケースが多く、単純なベースアップとは異なる形で従業員支援を行える点が特徴である。
・選択制DCの採用
A社は、急激な会社負担の増加を避けるため、選択制DCを導入することとした。これにより従業員は、生涯設計手当の一部を掛金として積み立てることが可能となり、税制優遇を受けながら資産形成を進められるようになった。
・投資教育の実施
企業型DCでは、従業員自身が運用商品を選択する必要がある。そのため、制度導入後の継続教育も重要となる。制度だけを導入しても、従業員が制度内容や投資の基本を理解していなければ、有効活用されない可能性があるためである。
特にA社では投資経験のある従業員が少なく、「元本割れ」への不安を持つ従業員も多かった。そのためMさんは、単なる商品説明にとどまらず、以下についても継続的に情報提供を行った。
•長期積立投資の考え方
•時間分散の効果
•インフレと購買力低下
•リスクとリターンの関係
•NISAとの違い
企業型DCは「制度導入」そのものよりも、その後の継続教育によって活用状況に差が生まれやすい制度ともいえる。
・社長自身も制度を活用
B社長自身も企業型DCに加入し、老後資金準備を進めることとした。中小企業では、経営者自身の退職金制度や老後資金準備が不十分なケースも多い。企業型DCは、従業員福利厚生だけでなく、経営者自身の長期的な資産形成にも活用できる制度といえる。
また、制度導入を通じてB社長自身も、「会社のお金」と「個人のお金」を分けて考える重要性を再認識した。これまでB社長は「会社を成長させること」が将来への安心につながると考えていたが、制度導入をきっかけに、自身の老後資産形成についても長期的な視点で考えるようになった。
・社会保険等への影響の説明
選択制DCでは、給与額が減少することで、社会保険料や将来受け取る年金額などに影響が生じる可能性がある。そのため制度導入時には、以下についても丁寧に説明を行う必要がある。
•社会保険への影響
•将来の年金額への影響
•住宅ローン審査への影響の可能性
特に、制度のメリットのみを強調した説明は後々トラブルにつながる可能性もある。FPには、中立的な立場から情報提供を行う姿勢が求められる。
制度導入後、A社では若手従業員から「会社が将来のことまで考えてくれていると感じた」という声が聞かれるようになった。また採用面接時にも、「企業型DC制度があること」が応募者との会話のきっかけになる場面が増えた。近年は求職者が福利厚生制度や資産形成支援制度を重視する傾向も強く、A社としても「給与以外の魅力」を伝えやすくなったという。
さらに、制度導入をきっかけに従業員同士で「NISAを始めた」「老後資金について考えるようになった」といった会話も増え、金融リテラシー向上の効果も感じられるようになった。
企業型DCは税制優遇のある有効な制度であるが、「節税になるから導入する」という視点だけでは本来の効果を十分に発揮できない可能性がある。特に中小企業では、従業員によって金融知識やライフプランが大きく異なるため、一律の説明だけでは十分とはいえない。
また企業型DCは、導入して終わりではなく、その後の継続教育や制度活用支援も重要となる。FPには、制度説明にとどまらず、以下を総合的に整理しながら長期的に伴走支援を行う姿勢が求められる。
•企業理念
•従業員のライフプラン
•採用戦略
•経営者自身の将来設計
企業型DCは、単なる福利厚生制度ではなく、会社と従業員双方の将来を支える「長期的な仕組みづくり」である。今後は人的資本経営の観点からも、企業型DCを活用した資産形成支援の重要性はさらに高まっていくと考えられる。