ケーススタディ(2026.8)
在職老齢年金の
支給停止額緩和に伴う
新たな年金受給層の開拓
《設例》在職老齢年金の全額支給停止により老齢年金を請求していない社長からの相談
2026年8月、信用金庫に勤務する渉外担当のSさんはX商事株式会社の代表取締役K(以下、K社長)がいまだに年金の請求を済ませていない様子であることから、その理由を尋ねてみることにした。するとK社長から、「今までは年金が受給できないことが分かっていたから請求をしていなかった。今年度から在職老齢年金が受給しやすくなったと聞いたので、調べてもらえないか?」という相談を受けた。
渉外担当Sさんは基本的な年金の知識は押さえていたが、本件についての詳細を確認するため、本部の年金担当者と共にK社長の年金額を調査することにした。
- 1959年5月生まれ(67歳)
- 厚生年金保険加入期間:45年以上
- 60歳の時に父から引き継いだX商事株式会社の代表取締役に就任。その後、年収780万円(賞与なし)で在任中。
- 家族構成:妻
1966年5月生まれ(60歳)。専業主婦。K社長と結婚するまでの10年間は厚生年金保険に加入。その後は60歳に到達するまで国民年金に加入していた。

金融機関にとって年金受給口座の獲得は、預金残高の確保のために非常に重要な項目となりつつある。では、どのようにして年金受給口座を獲得していくべきなのか。一つの方法として、すでに年金受給権が発生しているにもかかわらず、いまだ請求を行っていない層にアプローチする方法がある。
老齢年金を受給するには、原則として厚生年金保険または国民年金への加入期間が10年必要となる。このうち、1年以上厚生年金保険に加入していた場合には、〔図表〕のように本来の年金受給開始年齢である65歳になる前に、該当の年齢から老齢厚生年金のみを受給することができるようになる。これを、本来の年金受給開始年齢よりも前に特別に受給できる年金であることから「特別支給の老齢厚生年金」と呼ぶ。通常、特別支給の老齢厚生年金の受給権が発生した場合、速やかに年金請求を済ませたいものであるが、K社長があえて請求をしなかった理由はどこにあるのだろうか。
在職老齢年金制度とは、厚生年金保険の加入者が老齢厚生年金を受給する際、一定額を超えると老齢厚生年金の一部または全額が支給停止される制度である。
具体的には、「老齢厚生年金の月額+その月の標準報酬月額+(その月以前1年間の標準賞与額÷12)>支給停止調整額」となった場合に、超えた額の2分の1が老齢厚生年金から差し引かれて支給される。支給停止調整額は毎年度見直され、2026年度は65万円と前年度の51万円から大幅に緩和された。K社長が「在職老齢年金が受給しやすくなった」と発言した理由はここにある。
2026年度の場合、K社長の老齢厚生年金の年額は168万円、年収は780万円であり、
14万円+65万円>65万円
65万円を超えた額は14万円であるから、
14万円÷2=7万円
14万円-7万円=7万円
老齢厚生年金は月額7万円(年額84万円)受給することができる。
前年度(2025年度)の場合、
14万円+65万円>51万円
51万円を超えた額は28万円であるから、
28万円÷2=14万円
14万円-14万円=0円
前年度は老齢厚生年金を受給できなかったことになる。
また、支給停止の基準となる一定額は前々年度(2024年度)以前は51万円を下回る金額であったため、K社長は年金受給権発生以降、老齢厚生年金を受給できない状態だったことになる。K社長が年金請求を行わなかった理由はここにある。
なお、老齢基礎年金(国民年金)は生活の土台となる年金という観点から、在職老齢年金の支給停止の影響を受けることはない。請求をすれば全額受給することが可能である。
65歳から請求できる老齢厚生年金・老齢基礎年金は、共に繰下げ支給の対象となる。65歳から受給する年金額を100%とした場合、繰下げ支給の申し出を行えば66歳以降、毎月0.7%ずつ年金額が増加し、最大184%(75歳)まで増やすことができる。この増加率は65歳時点の年金額を基に計算され、在職老齢年金の仕組みにより支給停止となった年金額は計算の根拠とされない。そのため年収が高いまま在職した場合には、繰下げ支給の申し出をしたとしても老齢厚生年金額は増加しないことがある。ただし、老齢基礎年金は在職老齢年金の支給停止に影響することなく繰下げ支給によって増額する。
また、特別支給の老齢厚生年金が請求できるにもかかわらず、65歳時点でも年金請求を行わないでいると、老齢厚生年金・老齢基礎年金共に繰下げ支給のために、年金を請求しない状態(繰下げ待機)として扱われてしまう。
なお、繰下げ支給の申し出をしたことにより増額した年金額の累積が65歳から通常に受給した年金額の累積を上回るには、11年前後の期間が必要となる。仮に70歳で繰下げ受給した場合、男性の平均寿命である81歳ほどで元を取れる計算となるのだ。

配偶者加給年金は、原則として厚生年金保険被保険者期間が20年以上ある年金受給権者に生計を維持されている配偶者(年金受給権発生時に厚生年金保険被保険者期間が20年未満であること、年収が850万円未満であること、などの条件あり)がいる場合、年金受給権者が65歳になってから配偶者が65歳になるまで支給される一種の扶養手当である(2026年度価額:年額42万3700円)。
加給年金は老齢厚生年金に上乗せして支給されるが、在職老齢年金の仕組みにより老齢厚生年金の全額が支給停止されると加給年金もその全額が支給停止される。反対に老齢厚生年金の一部でも支給されると加給年金額は全額が支給されるようになる。年金請求時には老齢厚生年金が全額支給停止であったため加給年金も支給停止されていたが、支給停止の基準額が変更されたことにより、気が付かないうちに加給年金の支給対象者になっていることもある。なお、加給年金は繰下げ支給による増額の対象にはなっていない。
夫婦に年齢差がある場合、老齢厚生年金を繰下げ待機するよりも65歳から老齢厚生年金を受給し加給年金も併せて受給するほうが平均寿命の点から有利になることが多い。
年金を受給する権利はその権利が発生してから5年で時効にかかり、1カ月ごとに消滅してしまう。年金は受給権が発生したら速やかに請求を済ませておいた方が後悔しないで済む。
ただし、K社長のように、請求時に年金が受給できないことが分かっていたためあえて請求をしなかったということは高収入者を中心によくある話である。金融機関としては、在職老齢年金の支給停止基準が緩和された今、過去の給与振込みの情報から「あえて年金を請求しなかった層」を探ってみるのもよいだろう。
65歳以降、繰下げ支給のために受給を保留した年金は、70歳になるまでは65歳時点にさかのぼって請求し直すことができる。この際に、老齢厚生年金と老齢基礎年金のどちらか一方のみをさかのぼり、もう片方を繰り下げることも可能である。
なお、70歳を過ぎてさかのぼり請求をするとその時点から5年分さかのぼって繰下げ支給の申し出をしたものと見なされる(1952年4月2日以降生まれが対象)。
65歳を過ぎて厚生年金保険に加入し続ける場合、70歳になるまでは毎年10月に、原則として過去1年間の厚生年金保険料を基に老齢厚生年金が増額改定される。これを在職定時改定と呼ぶ。在職老齢年金が受給できる場合であっても、この改定により老齢厚生年金が減額または全額停止になってしまうこともあり得るので注意が必要である。年金事務所に試算を依頼する際は、70歳まで現状の給与体系で在職した場合など、具体的な条件を提示することで在職定時改定の影響を加味した試算を行うことができる。なお、来年度以降も支給停止調整額が緩和され老齢厚生年金が受給しやすくなる予定である。顧客の相談に応じる際には、支給停止調整額が変更されなかった場合に備えて、期待を持たせ過ぎることのないようアドバイスすることが重要である。
(1)試算の代行
顧客から年金事務所での年金額試算を委任された際、原則として委任者および配偶者の基礎年金番号等が分かる公的な書類(基礎年金番号通知書、年金証書、年金振込通知書など)があれば加給年金の支給の有無を含めて年金額を調査することができる。なお、年金事務所は全国的に予約制となっているため、調査には数週間の時間を要することを伝えるようにしたい。
(2)65歳以降の試算
本件のように65歳以降、年金を請求していなかった場合の年金額を試算する際には、
①通常に年金を受給した場合
②現時点で老齢厚生年金・老齢基礎年金共に繰り下げて受給した場合
③退任後に老齢厚生年金・老齢基礎年金共に繰り下げて受給した場合の3パターンを算出しておけばより詳細な相談に応じやすくなる。
特に、繰り下げた受給についての試算結果を提示しないまま65歳からの通常受給を促してしまうと、増額に関する説明がなかったことを理由にトラブルに発展することがある。どちらを選ぶかは顧客に任せるべきだが、選択肢は提供しておきたい。
(3)詳細な試算依頼への対応
設例では現状の報酬体系での年金額試算を依頼されているが、実務上、「報酬をどのくらいまで減らせば、年金を満額受給できるか?」といった相談を受けることもあるだろう。会社役員の報酬変更は、原則として事業年度開始から3カ月以内に行う必要があることなど、専門的な知識を要することがある。金融機関の職員としての知識の範囲を超えることもあるため、専門知識のある社会保険労務士などに協力を依頼し、慎重に対応していきたい。
(1)本来請求の老齢年金
1961年4月2日以降生まれの男性および1966年4月2日以降生まれの女性には特別支給の老齢厚生年金は発生しない〔図表〕。老齢厚生年金・老齢基礎年金双方の繰下げ支給の申し出をする場合、65歳時点での年金請求をあえて行わないことになる。
今後は繰下げ支給の申し出をするために初めから年金請求をしない層が増えてくることも知っておいたほうがよいだろう。
K社長についての試算結果は次のようになった。
64歳で特別支給の老齢厚生年金の受給権が発生した後、2026年3月までは報酬が高かったため在職老齢年金は全額支給停止であったが、2026年度から在職老齢年金の支給停止調整額が緩和されたことにより、老齢厚生年金の一部が支給開始されるようになった。そのため、妻が65歳になるまでの7年間、配偶者加給年金も受給できる状態になっていた。
なお、老齢基礎年金については65歳から受給可能であったが、年金請求そのものを行っていなかったため、繰下げ待機状態になっていた。
渉外担当Sさんが年金事務所で試算した資料を持参したところ、K社長は老齢基礎年金は在職老齢年金の支給停止の対象外であったことを知らず、驚いた様子であった。
また、配偶者加給年金についてもそれとなく聞いてはいたが、自分が対象になっているとは思わなかったとのことである。
繰下げ支給については「年金は受給できるうちにもらっておきたい」とのことであまり関心がない様子であったが、老齢基礎年金の増額率について知ると考えが変わったようであった。
- 本件については、
- 老齢厚生年金に関しては繰下げの効果がないこと
- 本年(2026年)4月から妻が65歳になるまでの7年間、配偶者加給年金が受給できていたこと
から、老齢厚生年金は65歳にさかのぼって請求することになった。
また、老齢基礎年金については増額の効果が期待できるため、70歳での退任後、あらためて繰下げ支給の申し出を検討することになった。
年金受給口座を獲得するには、プレゼントなどを提供する口座変更のセールスを行うのが一番の近道であるが、こういった方法で獲得した顧客はよりよい条件を求めて、再度口座変更をしてしまう傾向がある。
反対に年金請求以前の試算から顧客の要望に応えていくと、信頼関係が築かれ年金請求後も口座変更されてしまう可能性は低くなる。在職老齢年金の支給停止額緩和をきっかけにすれば、新たな年金受給層を見つけ出すことができるだろう。